温故知新のSDGsと経営道
「キレイゴトで仕事ができる時代が来た」SDGsを中小企業が本気で取り組む時、「三方良し」の経営が地球規模でやりやすい時代なのだと何より嬉しくなる。私は両祖父母の時代から自営業なり商売なりでやってきた一家で育った。そんな環境だったからなのか?私の中では生きることと、経営すること、商売すること、働くことはほぼ同義だ。
父が聞かせてくれた印象的なエピソードがある。
「日本の漁師は昔から網にかかった魚を根こそぎ採ってしまうことは無い。稚魚は離して商いする。でも漁が儲かると思って底引網で根こそぎ魚を採ってしまい、短期的な収益だけをみるという人もいる。底引網で根こそぎ採られては、稚魚を離すような漁師は太刀打ちできなくなって食べていけないので、漁をやめざるをえなくなる。魚が減って旨みが少なくなった時、底引網で採っていた漁師は漁をやめてしまう。その頃には真っ当な漁師はいなくなり、漁の技術は受け継がれることなく廃れてしまう。」
じゃあどうしたら良いんだろう?
真っ当な漁師として生きたい時、私はどうしたら良いんだろう?子供の頃には答えが出ずにとても切なくなった。
古くて新しい「持続可能な経営」
今なら答えは決まっている。
私は真っ当な漁師として、収益性が低くても細々と魚を採り続ける。そして、稚魚が増える仕組みづくりをする。それだけで食べていけないのなら、美味しい魚に付加価値をつけて売る。そういう漁をしていたら、飽きてしまったり…ということがないと思う。いつも喜びがある。たくさん知恵が湧いてくる。
SDGsという言葉を頻繁に聞くようになった。SDGsは古くて新しい。
日本人にとったら、どことなく懐かしくなる「持続可能な〇〇」だらけだから。
当たり前にしていることを、なぜ大層な項目にして言うんだろう?
「秘するが華」って文化はどこに?
そういう気持ちもよくわかる。でも、自社の「持続可能な社会づくりのための取組み」を言葉にしていくと、そのプロセス自体に感動する。今まで経営してきた人たち、先祖、両親、地域の人たちへの感謝の気持ちが湧き上がる。
道と術
「道」と「術」がある。勝手な解釈では、結果までの時間軸が長いのが「道」で、短いものが「術」と思っている。欧米人は何より「術」が得意に思う。短期的に結果を出していくための仕組みづくりみたいなものが秀逸で惚れ惚れする。待ったなし!と言うとき、この「術」を知っているのと知らないのでは雲泥の差が出ると思う。だけど、主にしたいのはやはり「道」なのだ。
生き方の美学の問題なので、結果さえ出せるならなんでも良いと言うのもそれはそれで…とも思う。ただ、自分がそう言う生き方を選ぶのか?と言うことになる。
「経営道」にSDGsをかけ合わせ
法人という単語も不思議で、会社は法的な「人」なので、会社としての生き様があるのだと思う。人よりも長生きできる可能性があって、よりたくさんの人に関わることができるのが法人だとすると、「人」以上の影響力を持った生き様が経営には現れる。
術に溺れるという言葉があるが、術には危うさがある。
SDGsは「道」にもなり得る「術」に思う。
なので、誰が語るかによってだいぶ印象が違う。小手先の戦術のようにしてSDGsを掲げていると途端に胡散臭い。一方で今までやってきた経営道に則ってSDGsという術を手にした企業は「キレイゴトで仕事ができるようになる」のだと思う。
SDGsも誰かに教わるものだとすると、「どんな哲学を持った誰に?」ということは肝になる。私は幸運にもSDGsに興味を持ったときに一番最初に教えてくださった方の哲学が、一本筋の通った「道」の中の「戦術」に思えた。そういう人を通して学ばせてもらえることはとても幸運だ。
仕事の中にSDGs道を見つける喜び
自分が働いている会社の中にある、SDGs道の発見はとてもワクワクすることだ。何気なくやってきた営業プロセスや企画、開発、他社との連携などなど。至る所にその宝物は眠っている。私は、自分自身の会社の中にそれを見出して行った時、とても深いところから喜びが湧き上がるのを感じた。そして、人の喜びを増やす時、SDGsの視点の中にたくさんヒントがあることに気付かされる。
「人は本質的に人に喜ばれるために生きている」そんな言葉がある。人に喜ばれる時、力がどんどん湧いてくる。残っていく会社の経営の本質も、そこにあるという。
「そんなの綺麗事だ!」と言われていた時代から「キレイゴトが本業を伸ばす」。それが、SDGs時代の真骨頂に思う。